■夢とロマンと希望を胸に■

●ボウリング場をオ−プン (株)マルハン代表取締役会長 韓 昌祐 氏

ぼくが京丹後市峰山町でレストラン「ル−チェ」の建設に躍起になっていたころ、在日社会ではすでにボウリング事業を手がけていた人物がいた。兵庫県尼崎市の阪神本線出屋敷駅前で「銀座」というパチンコ店を経営していた松山という人だった。その人が作ったボウリング場が関西圏のボウリング場のはしりだった。出屋敷のボウリング場の開店以降、在日同胞のパチンコ店オ−ナ−でボウリング事業を手がける人が増えていった。

ボウリング機械は、国内では古河鉱業が研究開発のさきがけだった。古河鉱業といえば、栃木県の足尾銅山で財をなした過去があり、山のイメ−ジが強い。しかし、ボウリング機械では国内のパイオニアだった。オ−ディンというギリシャ語で、「万能の神」という名のボウリング機械を開発していた。そのころ、1レ−ンとボウリング機械で500万円かかるといわれていた。建物を含まないコストだった。これに建物を加えると、1レ−ン1000万円というのが相場だった。つまり、30レ−ンのボウリング場を作ると、3億円かかった。

はじめてぼくがボウリングを見たのは、京都市内の松竹ボウルだった。直感的に、「これはおもしろいゲ−ムだな!」と思った。新しいレジャ−産業の予感がした。全国では尼崎の出屋敷のボウリング場の次ぐらいが、京都の松竹ボウルだったと記憶している。

ぼくは思い切って1967年(昭和42年)12月に、兵庫県豊岡市に「豊岡フレンドボウル」を開場させた。ひょっとしたら全国で4番目ぐらいだったかもしれない。16レ−ンのボウリング場が完成し、オ−プニングに、豊岡市長はじめ市会議員など地元名士がテ−プカットに来てくれた。オ−プニング・セレモニ−のときに、ぼくは不覚にも感極まって涙を流していた。「豊岡フレンドボウル」さえ作っておけば、家族を養っていける。これで一生食いっぱぐれることはないと、かたく信じていたからだ。ボウリングブ−ムは、永遠に続くものだと思っていた。

そして1年後に、その勢いで峰山に「峰山フレンドボウル」を開店させていた。そしてつぎに、京都市綾部市にボウリング場をつくろうと計画した。ところが地元の日東製鋼や地元の商工会議所の幹部が出てきて「自分たちがボウリングをやるから止めろ!」と圧力をかけてきた。それで綾部の出店をあきらめ、それから2年後、1970年(昭和45年)12月に、兵庫県柏原町に「柏原フレンドボウル」を作った。もうそのころは、ぼくの視野からパチンコ店舗経営は完全に消えていた。ボウリングこそ未来のレジャ−産業だと考えるようになっていた。

そしてそのころ、ぼくはボウリング場の全国チェ−ン店経営を構想するようになっていた。「日本一のボウリング王になって、峰山JCを見返してやろう!」と執念を燃やしていた。ボウリング産業の西原産業(株)を設立するために、峰山町に本社機能の事務所をつくった。わずか10坪ほどの小さな平屋だったが、6店舗の経理のオフィスになって8人が働いていた。静岡市内でボウリング場を作る計画が着々と進んでいた。施設は日本中のボウリングファンがあっと驚くような巨大なボウリング場であった。峰山JCから受けた民族差別がきっかけで、ぼくの体に激しい闘争心が生まれていた。その情熱が、「日本一のボウリング王になる!」という目標にむすびついていった。

マルハンへ

前の「記事」へ戻る ボグ交差点20へ 次の「記事」へ進む

 全国ボウリング公認競技場協議会「トップページ」へ 「ボグ交差点・目次」へ