■夢とロマンと希望を胸に-2■


第2回
第1回

●「日本一のボウリング王」目指して (株)マルハン代表取締役会長 韓 昌祐 氏

兵庫県豊岡市に「豊岡フレンドボウル」、地元の峰山町に「峰山フレンドボウル」、兵庫県柏原町に「柏原フレンドボウル」と、立て続けに3つのボウリング場を作ったぼくは、1972年(昭和47年)12月に念願の西原産業(株)を立ち上げる。全国各地にボウリング場のチェ−ン店を展開し、ぼくの野望であった「日本一のボウリング王」を成し遂げるための会社だった。

ちなみに西原産業を立ち上げる前に、家内の鈴木家の長男である鈴木暁が、1971年(昭和46年)9月に入社してくれた。そして翌年の1972年(昭和47年)10月には、次男の鈴木正義が入社していた。

それまで築いたパチンコ店舗「峰山カジノ店」、「豊岡カジノ店」、レストラン「ル−チェ」、ゴルフ練習場「峰山ゴルフ倶楽部」は、西原昌祐の個人経営だった。これから正式な企業になって、新たな挑戦の段階に入っていた。ぼくは意気揚々としていた。

会社を設立する1年前、ボウリング人口は老若男女あわせて1千万人に達していた。ボウリング番組では中山律子さん、須田開代子さんなどのスタ−選手が大活躍をしていた。人気絶頂のころ、テレビで1週間に8本から10本のボウリング番組があったというから、ボウリングは国民的スポ−ツとさえ持てはやされていた。

いまの若い人にはあのころの熱気がなかなか理解できないかもしれない。「柏原フレンドボウル」は、16レ−ンのボウリング場だった。オ−プンは午前9だった。ところが、1時間前にはもう100人ぐらいのお客さまが列をつくって並んでいた。正午にはその日1日の予約が終了するほど混み合っていた。深夜、午前1時をすぎてもお客さまは帰ろうとしない。「柏原フレンドボウル」の支配人が、「お客さま、すいません。ボウリングの機械を休ませないといけないので、今日のところは午前2時で勘弁して下さい」と謝ってまわったほど、世間の人々は熱狂していた。

そのころ「柏原フレンドボウル」で、1日1レ−ンで平均100ゲ−ムは稼働していたと聞いている。16レ−ンあるから、1日に1600ゲ−ムを消化していた。そのため、一つのボウリング場で27、8人の従業員が三交代で働いていた。土曜、日曜日ともなると、ボウリング場の社員に「ボウリングをやらせてくれ!」と電話が入った。友人、知人、親戚から、ボウリングやりたさにそんな頼みごとが山ほどあった。「給料はいくらでもいいです。店が終わったら、好きなだけボウリングをやらせて下さい!」という入社志望の若者もあらわれた。予約がいつも一杯で、電話の予約を断るのが社員の仕事みたいなときもあった。そのころのぼくは、やることなすことすべての商売が当たっていた。だから、いつも強気だった。

当時、沸騰したボウリングブ−ムに乗じて銀行と商社がボウリング場建設を煽っている一面があった。ところが、各地にボウリング場がてきると少しずつ頭打ちになって、ボウリングブ−ムに陰りが見えてきたころでもあった。ところが、ぼくは、「日本中のボウリング場がつぶれても、俺だけは生き残るわ!」と息巻いていた。

西原産業(株)の設立と同時に、静岡県静岡市中吉田に120レ−ンという巨大ボウリング場「静静フレンドボウル」の開店準備に入っていた。そのときだけは、家内が珍しく不吉な予感がしたらしく巨大ボウリング場建設計画をある占い師にみてもらっていた。占い師は、「絶対にやったら、あかん!」と忠告したそうだ。それで家内はなおさら不安になって、ぼくの事業を止めに入った。そのとき、ぼくはこんな風に言い切った。「何を言っているんだ! ぼくは、大学で唯物論を勉強した人間だ。迷信なんか信じない。そんな占い師なんかに耳を傾ける経営者がいるか! 絶対に、俺はやる!」いま冷静に振り返ると、うぬぼれがあったと思う。その年、ぼくは数えで42歳の厄年になっていた。(つづく)

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