■夢とロマンと希望を胸に−3■
●静岡に巨大ボウリング場をオ−プン (株)マルハン代表取締役会長 韓 昌祐 氏 1972年(昭和47年)12月、静岡市の「静清フレンドボウル」がいよいよ開店する運びとなった。1階に60レ−ン、2階に60レ−ン。計120レ−ンという巨大ボウリング場の幕開けだった。静岡市から国道1号線で東に向かった場所で、最寄りの駅でいうと東海道本線のJR草薙(くさなぎ)駅に近いところだった。 年末から明くる1973年(昭和48年)の正月まではお客さまが順調に入っていた。1月だけは正月気分でドンと売り上げがあった。ところが、それから間もなく客足が鈍くなっていった。各地でボウリング場がつぶれるという情報もぽつぽつ耳に入っていた。 少し前まで、ボウリング大会を開いて優勝者にトロフィ−を授与すると大喜びされた時期があった。一般のお客さまにとってトロフィ−はまだ価値があった。トロフィ−を応接間に飾る喜びがあったのだ。しばらくすると優勝者への賞品が、電化製品やカラ−テレビへとエスカレ−トしていった。そのうち軽自動車を賞品で出すボウリング場まであらわれた。そこまでやらないと、お客さまを集客できなくなっていた。 5月のゴ−ルデンウィ−クを過ぎたころ、お客さまは潮を引くようにフロアからいなくなった。ぼくは、静岡の「静清フレンドボウル」の7階にあった従業員宿舎から、毎日ポツリポツリとまばらに入ってくるお客さまの様子をがく然とした気持ちで眺めていた。 あるとき、「静清フレンドボウル」の7階から見ていると、ス−ッと一台の車がボウリング場に入ってきた。「ア−ッ、来てくれた!お客さまは神様や!」ぼくは思わず手を合わせていた。そのくらい閑古鳥が鳴いていた。ところが、ガラガラのボウリング場を見て車はきびすを返して帰っていく。人のいないところに、人は入っていかないものだ。 「峰山フレンドボウル」でも同じだった。当時、「峰山フレンドボウル」の支配人が、ボウリング好きな従業員にこうけしかけていったという。「どうせ暇なんだから、サクラになってボ−ルでも投げろ!」ところが、流行の衰退は無情なものだった。ボウリング好きな従業員でさえ投げる気がしなくなっていた。 そして追い討ちをかけるように、その年の10月に第一次オイルショックが起きる。ス−パ−からトイレットペ−パ−が消え、洗剤がなくなった。主婦が大騒ぎで品物の買占めに走り、日本中が大パニックになった。人々はボウリングどころではなくなっていた。つい1、2年前までの熱狂は何だったのかと思うほど、ボウリング熱は急速に冷めていった。
静岡市の「静清フレンドボウル」の総工費は、20数億円かかっていた。幸福相互銀行から10億円の融資を受けていた。商社金融で日綿實業からも14億円の借金があった。そのほかに、もろもろの借金と利子を含めると、ぼくの記憶では60億円にちかい負債になっていたはずだ。今のお金に換算すれば、感覚的に2000億円ぐらいになったのではないか。 「きょうの静清フレンドボウルの売り上げは、いくらですか?」日綿實業から、毎日、峰山本社の経理担当に電話が入った。日綿實業との約定通りには借金を返せない状態になっていた。利息がずっと溜っていた。その後、まったく返済の見込みが立たなくなっていた。 大阪の幸福相互銀行からも呼びつけられた。債権取立て担当は米盛さんという管理部長だった。 戦前の憲兵隊あがりの鬼みたいな顔をした、それは厳しい部長だった。「君、どうしてくれるんだ!この天文学的な借金をどないするんや?」ぼくは、うなだれて米盛さんの話を聞いていた。「天文学的な借金」という言葉が頭の中にこびりついて離れなかった。背負った額が大きいだけに、ぼくはどんどん精神的に追い詰められていった。 峰山の実家に戻ると、椅子に坐りうつむき加減になって両手で頭を抱えるようになっていた。自分でも知らないうちに、険しい顔で黙り込む日が多くなっていたのだろう。ぼくの異様な雰囲気を察してか、子どもたちは遠くから見ていた。「もう、死ぬしかない。死んで関係者にお詫びをするしかない!」そんな想いだけがぐるぐる頭のなかを駆けめぐった。どのようにしたら、死ねるのだろうか。ぼくは真剣に自殺の方法まで考えるようになっていた。(つづく) |