■夢とロマンと希望を胸に−7■
●(株)マルハン代表取締役会長 韓 昌祐 氏 その後、米盛さんは幸福相互銀行を定年退職で辞められた。幸福相互銀行の子会社の福寿信用組合の融資担当の理事になった。そしてある日、人が見たら震えあがるような恐い顔をした米盛さんから呼び出しがかかった。 ぼくは、大阪の福寿信用組合を訪ねた。「西原さん、あんたに金を貸してやるよ!」と米盛さんはあっさり言った。あっけにとられていると、「そのかわり、私が言うとおりの返済計画書の絵を描いて、書類を作成してこい!」融資のノウハウを全部教えてくれるのだった。 ぼくを叱咤激励してくれた日綿實業機械部の松川部長ほか審査部の幹部もぼくの命の恩人だった。そして、米盛さんもまた忘れられない恩人の一人だった。それから、もう一人個性の強い恩人がいた。 兵庫県豊岡市にある但馬信用金庫の宮垣貞雄理事長もまた忘れがたいぼくの恩人だ。豊岡市のある人の紹介で、宮垣さんに会いにいった。偏屈でぶっきらぼうなおじさんで、但馬信用金庫では独裁者的な立場の人だった。 ぼくが挨拶にいくと、「おまえ、何しに来た?」という嫌な顔をされた。ぼくは借金のお願いに行ったのに、それを知っているはずの宮垣さんは一切金の話をしなかった。するのは戦争中の兵隊時代の話ばかりだった。 「戦時中に、本来は鳥取の部隊に入らないといけないのに、岡山の部隊に紛れ込んでしまってね、それでよく虐められて、殴られたよ。だけど自分は衛生兵で、上官に可愛がられたから兵隊用のコンド−ムをいくらでも入手できた。中国に進軍したときにコンド−ムをヤミで大量に売って、一儲けしたんだよ」 そんな戦争中の自慢話ばかりが続いていた。ぼくは、もうしびれを切らして融資を真剣にお願いした。すると宮垣さんが、「ボウリングで失敗したからといっても、どこの銀行も君には貸さないよ!」 冷や水を浴びせるような答えが返ってきた。がっくりしていると、こう言うのだった。「何でもいいから別の会社を作って、新しい会社の名前で融資を申し込んでくれ」 とそっと助言してくれた。その通りに実行すると、あとは宮垣さんが黙って融資計画の絵を描いてくれた。窮地に立たされていただけに、ぼくを助けてくれた忘れがたい恩人になった。それは、ほかの金融機関と対応がまるっきり違っていた。 他の銀行は、まず「貸しましょう」と言うからこちらは融資を申し込む。そのあとで「書類を出して下さい」と言うので、素直にいろいろな書類を作成して提出する。 ところが、提出した書類は会社のあら探しをする書類であって、財務の欠陥を分析するための資料になっていた。実は、貸したくない理由を作るために書類を出させる効果もあった。それで最後に、こう切り出すのだった。 「残念ですが、決裁が下りませんでした」と言って、融資をしない。こういう経験をぼくは何回もしているから、今でも銀行を絶対に信用していない。 こうして何人かの忘れがたい恩人たちに援護され、ぼくは精神的に息を吹き返していた。 ボウリング場経営は失敗したけれど、愛着があってボウリング施設を売却しなかった。また、店舗はいったん火を消すと二度と灯らないとも考えていた。「社員がたとえ一人になっても、ボウリング場を継続させろ!」とはっぱをかけた。そして、「ボウリング場の社員は、自力でめしを食え!」と、峰山本社から指令をだした。(つづく) |