■事務局ひとり言■
●スポ−ツボウリングの恩人 全公協は昭和49年4月に発足した。まもなく35周年を迎える。発足してから2ヵ月目に事務局に入った。もうそんなに経ったのか。早いものだなぁ、というのが正直な感慨です。この間に事務所は7回移転。初代と二代目の会長はすでに亡くなり、発足時の役員はもう誰もいなくなった。35年という歳月は、人に対して無情であったり、世代交代を迫ったりするものらしい。 一方、業界の各団体の枠組みは、この35年間変化なく今も存続している。業界組織の簡素化の視点からは、良かったのかどうか。また業界全体の基盤向上が図れたのかどうか。それは簡単には判断しかねる問題でもある。この点は後世の評価を待つしかないのだろう。 業界で最も印象深かった人はというと、JBC藤野淳之介副会長だろう。業界に入った直後にその存在を知った。昭和49年頃はというと、まだボウリングを遊びやレジャ−の類でしか評価しない人、スポ−ツの確立なんて無理だという人が多かった時代。藤野さんは、スポ−ツボウリングの確立のために、体協加盟、国体参加、オリンピック参加という遠大な目標を掲げ、それに向かって全力疾走した人だ。ただしその成果を見ることは叶わなかった。また初期の全公協を強力に支援した人でもある。今、振り返ってみるとスポ−ツボウリングの恩人(井戸を掘った人)だったことが分かる。 また個人レベルの話をすると、藤野さんは非常に怖い人だった。ある時など、ポスタ−デザインを相談せずに進めた折には、烈火の如く怒られた。鼓膜が破れるような怒号だった。取り付く島がない。あれやこれやで難儀なことが多かった。そんな記憶がよみがえってくる。本人が亡くなるまでの6年間ぐらい同じ事務所にいただろうか。この時には、職場で嫌なことやもう我慢も限界だという時でも、さらに耐えて辛抱すれば、新たな局面が生まれるということを学んだ。 藤野さんの優れていた点は改革者だったということだろう。また改革は一方で破壊を伴い、多くの対立場面を生み抗争ともなった。しかし、いったん決断したことに対しては、ひるまなかった。多くの傑出した能力は、とうてい真似の出来ない点だった。また仁侠を地でゆくような性格が多少あったのかも知れない。 こうして、長い年月を経ると、怖かった藤野さんが懐かしく思い出される。年月が癒してくれる部分と、こちらの感性が鈍くなってきたたせいでもあろう。その後は、体協加盟・国体参加・アジア大会参加等もとうの昔に達成し、今は若い選手が続々と活躍している。一体どんな風に喜んでいるであろうか。また現在の業界に対してはどんな感想を持たれるだろうか。「あっぱれ!」ではなく「喝つ!」のような気もするが。桜の咲く頃が命日。藤野さんを偲んで、その先見性と多くの功績に対して感謝したいと思う。 |