■夢とロマンと希望を胸に■
●店舗数で日本一 (株)マルハン代表取締役会長 韓 昌祐 氏 1990年代初頭のマルハンは、ボウリング事業の失敗で抱えた莫大な借金を死に物狂いで返した勢いがそのまま持続していた。気がついてみると店舗数は35軒に拡大していた。 そのころのぼくの正直な気持ちは、資金繰りで助けてもらった多くの保証人に、絶対に迷惑をかけてはならない、ただそれだけだった。 「日本一のパチンコ店になりたい!」などという野望はさらさらなかったのだ。 ところが、ある年のパチンコ業界誌か新聞に、「マルハンが、店舗数で日本一!」という記事が掲載された。それを読んで、 「エ−ッ、ほんまか−っ!」マルハン京都本社で、みんなが仰天した。記事で日本一になっている事実をはじめて知ったからだ。 ぼくの持ち前のハングリ−精神と、「やればなんとかなる!」という幹部と社員が一丸となって借金を返済した時代で、そのころは企業としての理念、マルハンイズム、社員の表彰制度、ロゴマ−クの統一、福利厚生など会社らしいものは何一つ整備されていなかった。 パチンコ業が21世紀のサ−ビス産業に発展するには、いつまでも店内で「軍艦マ−チ」を流すのはおかしい。ぼくは、あの曲が大嫌いで、義兄から峰山のパチンコ店「千波」を受け継いだときから「軍艦マ−チ」を1回も流さなかった。それから閉店になると、どの店舗も「蛍の光」を流して終わる。あれも大嫌いで、ぼくはスコットランド民謡「アニ−・ロ−リ−」の曲を流していた。 次男の韓裕が1990年(平成2年)3月に入社して、1年半ほどしてぼくにこんな提案をしに来た。 「新しいモデル店を作りたいのです。モデル店を通して、人材を育てていく環境を整備したいのです。マルハンが目指すべき価値あるビジョンを明確にして、そこに向かってきちっとした教育制度を構築したいと考えています」 裕は大学4年生のときに、10カ月間ほど米国のオクラホマ大学の中にある語学学校に留学した。法政大学卒業後はチサンに入社した。チサンには、ホテル部、不動産部、ゴルフ事業部があり、彼はゴルフ事業部を希望して埼玉県深谷市にある岡部チサンカントリ−クラブに配属になった。そのころ、約100人のキャディ−さんと付き合い、2年間いろいろなお客さまに応対したという。 そうした経験を積んだ彼の率直な感覚からいうと、 「パチンコ業は、サ−ビス産業としてなっていない。お客さまをお客さまとも思っていない。文句あったら、言ってみいという姿勢でホ−ルに従業員が立っている。かえってお客さまに威圧感さえ与えている」 というのが、彼が指摘する問題点だった。 (つづく) |