旅はやはり楽しい

ブナ林の秋 石川県尾口村
ブナ林の秋 石川県尾口村

●旅はやはり楽しい 作家 あさの あつこ 氏

ここ数年、ダンナと二人、1、2カ月に一度、日本のあちこちを旅する暮らしが続いている。なんて書くと、夫婦で三味線を抱えての流れ旅みたいな印象になるが(え? 別にならないですか)、実際は短くて4日、長ければ1週間ホテルに泊まりこみ、ダンナは趣味が高じて半プロみたいになったカメラの撮影に、わたしはせっせと原稿書きに精を出す、そんな有り様なのだ。

八甲田、奥入瀬、富良野、登別、屋久島、信州、奥日光、出雲、富山、萩、伊豆、角館、熊本、宮古島……ざっと羅列しただけで、なんだかご当地巡りの演歌が作れそうな気がしてきた。わたしはもともと出無精で怠け者だ。地図は読めず時刻表は見ていると目がちかちかしてくる。それがまさか、日本国中をうろちょろするはめになろうとは夢にも思わなかった。

まぁどこに行っても、せっせと動き回るのはダンナのみ、わたしはホテルの周辺をうろつく程度なのだが。「今朝の日の出はイマイチだった」とか「山の中でばったりカモシカに会うたぞ」とか土産話を背負って帰ってくるダンナに「あらそう。あんたはええわな。わたしなんか、ず−っと仕事しとったのに」と嫌味を言うのは、わたしが、趣味が高じて半プロになった夫(ほんとうは現役の歯医者です)を支える健気な妻の役を一人演じているからだ(健気な妻は嫌味は言いませんよね)。が、しかし、違うのだ。わたしもやはり旅を満喫している。ホテルの周辺を歩くだけで、旅は確かにわたしのものになっているのだ。

旅に出れば必ず見知らぬ風景に出逢える。それはもう確実に。この前は上高地に数日逗留した。晩秋の上高地だ。名高い河童橋辺りの風景は確かに絶景と呼ぶに相応しかった。ただ、わたしが息を呑んだのは、ホテル周辺の雑木林の中を一人歩いていたときだった。

無風だった。それなのに黄色く色づいた葉が散っている。次から次へと早朝の冷え切った大気の中を雪片のように舞い落ちていく。熊笹の繁みに落ち音をたてる。カサ、カサ、カサ。誰もいない。わたしだけがいる。朝の光に金色に輝きながら惜しげもなく木の葉が散っていく。その風景の何と妖しく美しかったことか。今、思い出しても身体と心が震える。奇跡とも思える出逢いだった。

ああいうものに出逢える。前触れもなく、予兆もなく出逢ってしまう。旅はやはり楽しい。そして、少し怖い……と思う。

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