| ■1回の人生だから■
●命尽きるまで、笑顔で生きる 作詞家 喜多條忠 氏 阪神大震災を経験した。ちょうど競艇のテレビ番組に出演するため大阪のホテルの27階に泊まっていたんです。朝方、突然、右へ3メ−トル、左に3メ−トルと振られ、縦にも斜めにも揺れ、まるでカクテルのシェ−カ−の中の氷。窓はビシッ、ビシッと音を立て、ガラスが割れて外に投げ出されると本気で思った。ベッドとテレビはグルグル回り、コ−ヒ−が入った金属のポットとカップは宙でぶつかった。外国からの泊まり客は大声をあげて廊下を走り回っていた。揺れがおさまると、「まだ生きてらぁ。悪運が強いな」としみじみ思いました。 横浜の自宅に戻ると、「インドに行くぞ」と妻と5日後に出かけた。価値観が変わるという話を聞き、いずれは行きたいと思っていましたが行ったら死んじゃうような気がして先延ばしにしていたのです。命拾いした反動でしょう、褒美の感覚があった。行くなら、ヒンドゥ−教とイスラム教の紛争地、北部のカシミ−ル地方の砂漠だと思っていたのです。 人間はどんな境遇でも生き抜けると実感できました。足が不自由な人が台座に輪がついた乗り物を片足でこぎ、50メ−トル先からビュ−ッと物ごいにくる。おカネをあげると、礼も言わずに戻っていく。牛がひく大八車の上の一家10人は継ぎはぎだらけの服。でも、夕日の中、全く幸せそうな顔をしている。この人たちは何千年も前から、ずっと変わらぬ暮らしをしているのだろうなと思った。 小説にも書いたが、本当の親が違っていたとか、女房が逃げたとか、そんな無念さは、インドの夕日にはとてもかなわなかった。小さい時から体が弱く、「7歳まで生きられない」「30までには死ぬだろう」と勝手に決めつけていた。しかし、命尽きるまでしっかり生きようと、初めて思った。幸せは笑顔でしかない。生きていれば、幸せな顔ができる時がくる、と心底思ったら、涙が出てきて仕方なかった。 競艇の関係の収入が作詞を上回っている時期もありました。生きることは遊ぶことだと、20年ほど寄り道しましたが、還暦を迎え、本気で仕事をしています。人生のうろを解放したくて小説を書きました。歌もものすごく書いている。結局、おれにとって生きることイコ−ル書く、それしか無いと。 |